「お金があれば、逃げられる」— 私が浪費をやめた理由
走馬灯です。
「お金があれば、逃げられる」— 浪費家だった私がそう思えるようになるまでに、10年以上かかりました。
かつての私は毎月のようにお金を使い果たし、タバコとお酒と洋服にすがって生きていました。
でも、浪費癖を直すことで貯金ができて、その貯金を使い投資を始めたら500万円程度の資産が5年で1000万円を超えるところまで成長しました。
現在は資産3000万円に到達し、これならいつ仕事を辞めてもいい、何かあったら逃げてもいい、というメンタルを得て、日々を穏やかに過ごしています。
この穏やかさは、大切なものを大切にできる生活です。そしてそれは私にとって、大切な家族である飼い猫1匹と不自由なく暮らす、ということを最優先にできる生活です。
資産3000万円を超えた今なら、その生活に手が届きます。ここまできてようやく、あのとき浪費癖を直せて本当によかったと心から思います。
この記事では、そんな「あのとき」を振り返りながら、浪費癖を直した方法を書いていきたいと思います。いま浪費癖に悩んでいる人や、これからの未来に漠然と不安のある人の参考になれたら幸いです。
守銭奴と呼ばれた少女。10歳で10万円貯めた理由
20代前半は浪費家でした。けれどもちろん、生まれたときからそうだったわけではありません。それどころか、高校を卒業するまでの私は貯金マンでした。
お小遣いもお年玉もぜんぶ貯金。お手伝いをするときは最初に報酬金額を提案し、双方が納得できたらやる。母親は私のことを「守銭奴」と呼んでいましたが、おかげで小学生の頃でも10万円以上の貯金があり、高校卒業の頃には50万円以上の貯金を持っていました。
バイトはしたことがありません。中学と高校が通学に片道2時間かったからです。バイトをしている時間はありませんでした。貯金の種銭は主にお年玉と月々のお小遣い。そこから給食代と昼食代を引いて残った小銭です。
そもそもなぜ貯金をしていたかというと、母子家庭で貧乏だったこと、生活費が足りなくなると離婚した父親に電話して養育費の振込を催促しなければならないこと、その電話がとても嫌だったこと、というのが原因でした。
両親は小学生の頃に離婚しましたが、もともと父親とは仲が良く、遊んでもらった記憶もしっかりとあり、娘と父親、という絆はずっとあったのです。にもかかわらず、そんな相手に「お金が足りないので振り込んでください」という電話をしなければならない…それがとても苦痛で、恥ずかしくて、悔しかった。そんな体験から、お金は大事だ、お金があれば恥ずかしい思いをしなくてすむ、という意識が育ったのかと思います。
家の通帳の残高を見ると、いつ父親に催促の電話をするのか、と怖くなり、自分の通帳の残高を見ると、着実に増えていることにホッとするような学生時代でした。
上京と残高ゼロの通帳。逃げた先でまた貯め始めた
高校卒業後、大学に行かずに上京して働くことを選びました。選んだ、というよりも、実家を出たくて逃げるように上京し働き始めた、というのが正しいかもしれません。
父親に養育費の催促をする、という記憶が染み付いた場所にいるのが嫌だった。大学に通う金額を計算したらとてもじゃないけれど自分の貯金では無理だとわかっていたし、無知だったので奨学金制度のこともよく知らなかったのです。だったらもう働くしかない、と思い込んでいました。
それまでに貯めた50万円を使い東京に引っ越して、すぐに派遣で仕事を見つけ、社員寮で暮らしつつ、引っ越しでゼロになった残高を再び増やすために頑張りました。
当時はまだ20歳にもなっていなかったので、仕事はすぐに見つかり、残業をすれば30万円は稼げるような時代でした。派遣に登録し、なんでもやります、と言ったのもよかったのかもしれません。仕事の紹介がない、ということは一瞬もありませんでした。運が良かったのです。
最初に働いた事務職は時給が1600円以上。残業代を含めて毎月30万円は手取りがありました。
生活はといえば、平日は朝7時に家を出て23時過ぎに帰宅、土日はつかれて出かける気にもなれず、上京したばかりで友人もいないため、遊びに出かける用事も皆無。
社員寮のため家賃もほとんどかからない。使い道のない30万円はほぼ手つかずで貯金はみるみる溜まり、1年ちょっとで200万円を超えました。
孤独とお金。アパレル沼に沈んだ20歳
大人になると、貯金って簡単なんだな。
20歳になった頃、そんなことをぼんやり思っていたことを覚えています。楽勝だと思っていました。派遣で働けばいくらでも稼げる。派遣の契約期間が終了してもすぐに次が見つかる。稼げないとか働く場所がないとか、そんな悩みとは皆無でした。楽勝だと思っていました。若かったからどこでも雇ってもらえたのです。
けれど、この若さが罠でもありました。
派遣で働くと一緒に働いている人はほとんどが自分より10歳以上年上で、友達というほど気やすい関係にはなれません。
地元の友人はみんな大学進学組で、私は一人きり。
働く日々に趣味もなく、でもお金だけはどんどん貯まっていく。
200万円を超えた頃、「何か楽しいことをしたい」と思うようになりました。
でも。時間も人脈もない—そこで私が選んだ「手軽な遊び」が、買い物でした。
東京ではいろんなお店があって、全部おしゃれで、全部かわいくて、全部かっこよかった。地元では見たこともないようなお店が、駅から歩いてすぐに行けるような距離にいくつもある。
お金を持っている私は、洋服にハマりました。特にお気に入りのアパレルブランドを見つけてからは、1回で5万円以上の買い物をして、店員さんと仲良くなり、新作が出るたびに通うようになりました。そしてある日、店長さんがふとこぼしたのです。
「うち、人手不足なんだよね」
そのとき、私は思ったのです。ここで働けば、毎日大好きなブランドの服を着て、毎日誰かと話せる、と。
「私、応募していいかな」
当時の私はアパレルショップ店員の給料も知らなかったのですが、貯金があったので給料を心配するという思考すらありませんでした。私の頭は、好きな服を着て働きたい、という気持ちでいっぱいになり、結果、私はそのお店で店員として働くことになりました。
この転職が、浪費家への転落でした。
大好きなアパレルブランドのショップ店員として働くのはすごく楽しくて、毎日が充実していました。
新作が入れば一緒に働いているみんなとかわりばんこで試着して、どれを買うかで盛り上がり、大好きな服を着てお店に立てばお客様には服を褒めていただいたり、服に合わせた髪型やアクセサリーを褒めていただいたり、毎日たくさん「かわいい」と言ってもらえて自己肯定感がどんどん高まるのを感じていました。
また、アパレルショップというのもあり、働いているみんなも年齢が近く、仕事が終わっても飲みに行ったり遊びに行ったりできるような仲間ができたのも初めてのことでした。お酒とタバコを始めたのはこの時です。
当時、憧れのショップ店員さんがいて、その人の真似をしたくてお酒とタバコを始めました。お酒とタバコを嗜むために職場近くのバーに入ったら、そこでも常連の人たちと話すようになり、それが楽しくて通う、というサイクルが同時期に構築されます。
お酒とタバコと洋服に貯金を使い、信じられない速度でお金が減っていきました。貯金がなくなると、お給料を使い果たすという生き方になりました。20歳から23歳の3年弱だったと思います。
朝までお酒を飲んでもいつも通りに動けました。1日2箱タバコを吸っても声が枯れたりすることはありませんでした。不規則な生活をしても体型が変わることはなく、好きな洋服を着るのに困る事はありませんでした。
若さでなんとかできていたのです。今では絶対にできないような無茶を毎日していました。この時期ほど毎日が楽しくて賑やかで、たくさんの人と遊び尽くしたことは、人生の中で他にありません。とてもとても楽しかったです。
1日3箱のタバコが、人生を変える計算式になった日
このままじゃダメかもしれない。
そう気づいたのは、タバコ値上げのニュースを何度か耳にしたときでした。
当時はタバコの値上げが立て続けにあり、このまま行くと1箱500円とかいきそうだね、なんて話をよくしていました。理不尽だ、なんて喫煙者同士で文句ばかり言って、値上げのニュースを見るたびにイライラしていました。
散々ニュースで騒がれたあと、1度目の値上げ。それでも、相変わらず消費ペースは1日2箱、多いときで3箱。当時は仕事先も遊びに行く先もほとんどの人が喫煙者で、値上がりしてもやめられないかな、と思っていました。
けれどそう思えたのは1度目の値上げのときだけで、2度目の値上げの話を聞いたときには危機感を覚えたのです。昔から小心者なんですよね。
そのときの私は思いました。このままタバコを吸い続けていつかタバコが1箱500円とか、さらに高くなって1000円とかなってもやめられなかったら、私はいったいタバコにいくら払うんだろう、と。
そこで、リアルに1年間でタバコに使う金額を計算し、ゾッとしたのが最初の気づきです。
当時まだ1箱300円程度のタバコ。1日3箱で1ヶ月2万7000円。1箱400円になったら1ヶ月3万6000円。500円になったら1ヶ月4万5000円。
嫌な思い出の染み付いた場所から逃げたくて上京するときに使ったお金は50万円。小学生から高校生まで12年かけて貯めた金額が、タバコをやめるだけで1年半で貯められる。
逆に言えば、私はタバコを吸うだけで自由になるために使った金額と同じだけの金額を、2年もたたずに消費してしまうのかと思うと恐ろしかったです。それぐらい、上京してきたときに使ったお金は私にとって価値のあるものでした。
タバコを吸うことで得られることってなんだろう、と考えたとき、思いつかなかった。その時の虚しさは今思い出しても悲しくなります。
確かにタバコを吸っている方が入りやすい輪というのはあったけれど、タバコを吸わない人もそこにはいて、タバコを吸っているか吸っていないかに関わらず交流があったので、タバコって、もしかしていらないのでは?と気づきました。タバコは、たいした理由もなく流されるまま吸っていたのだと、そのときに自覚したのです。
当時は上京して友達もいなくて、親戚もいない土地だったので、誰かに合わせることで仲間だと認めてもらいたかったのかもしれません。けれどそうやって流されて生活した結果、すっかり浪費家になり、貯金はゼロで、これから先も『自由になるために使った金額』すら作れず行きていくのか…そう思うと恐ろしかった。その恐怖と引き換えにするほど、タバコとそれをきっかけにしか構築できない環境には執着できませんでした。
変わりたい、と思ったのです。
まとめ 変わりたいと思ったあの日、貯金が“自由”の代名詞になった
タバコも、お酒も、洋服も、私にとっては「誰かとつながる手段」でした。
でも気づけば、つながるために自由を失っていたのです。
このままじゃダメかもしれない。変わりたい。
そう思ったあのときから、浪費癖との戦いが始まりました。
次回は、そこから私がどのように浪費を抜け出し、貯金体質に変わっていったのか。
「浪費癖をやめるために実際にやったこと」を、具体的にご紹介します。